2015年11月16日月曜日

ダグラス・ラミス「那覇発、辺野古行き島ぐるみ会議バスPart Ⅱ」@JapanFocus

In-depth critical analysis of the forces shaping the Asia-Pacific...and the world.
アジア太平洋ジャーナル/ジャパン・フォーカス
アジア太平洋…そして世界を形作る諸力の批判的深層分析

辺野古行きバス Part II
新海兵隊基地をめぐる機動隊と沖縄県民の対決

20151110
C・ダグラス・ラミス C. Douglas Lummis

本稿は、現在の米国海兵隊基地を沖縄北部の大浦湾に移設・拡大する辺野古の新基地建設を阻止するための市民行動に関する報告シリーズのパート2である。パート1の日本語訳は、このリンク先[日本語訳:Peace Philosophy Centreダグラス・ラミス:17日、島ぐるみ会議辺野古バスで話し合ったこと」]。

この問題の概要は次の記事を参照のこと――Ashitomi Hiroshi, Urgent Okinawan Appeal for Help introduced by Gavan McCormack[ガヴァン・マコーマック解説、安次富浩「沖縄支援要請の緊急声明」。日本語未訳。声明文は、ヘリ基地反対協議会「翁長知事の埋め立て承認取り消しを支持する緊急声明」]

113日。わたしが連日運行されている辺野古行きのバスに乗るために、930分に県庁前広場に到着すると、マイク・モチヅキが待っていた。ワシントンDCのジョージ・ワシントン大学で教えているマイクは、数年前から辺野古の新基地問題に関心があり、それについて本を書き、ロビー活動をしていた。今回は別用で沖縄に来ていたが、わたしの勧めに応じて、那覇発の島ぐるみ会議バスに乗ることになった。彼は沖縄で知名人になっており、何人かの人たちが気づいて、彼を喜んで迎えてくれた。

祝日(文化の日)であり、バスは満員だった。全員が座るのに、通路の予備シートをいくつか起こさなければならなかった。常連の大城博子――「ガイド」ではなく、たぶん「世話役」?――が、いつもの事前説明をし、弁当の注文を取りまとめ、初めての参加者を確認してから、マイクを回しはじめた。新入りはいつでも暖かく迎えられ、とりわけ日本の本土または外国から来ていれば、なおさらだった――が、外部からの訪問者が沖縄の状況に無知であるため、押し黙っていたり、不快なことを言ったりすれば、きっぱり訂正を迫られた。

マイクも新参者であり、マイクがほどなく回ってきて、自己紹介をすると、暖かい拍手を受けた。だが、彼は自分の立場が他の乗リ合わせた人たちとはまったく違っていることがわかっていたので、慎重にことばを選んだ。彼は、沖縄の基地問題に関心があり、それについて書いたこと、再び書くつもりであること、バス内と基地ゲート前の雰囲気を体験したかったこと、ワシントンDCに戻ってから、政府と学界の知人たちに沖縄の人びとが考えていることや感じていることを伝えたいと思っていることを語った――この最後のくだりは拍手喝采を浴びた。彼は自分の好みの妥協案、つまり大浦湾埋立事業を取りやめ、キャンプ・シュワブの内部にヘリパッドを造成し、普天間航空基地の第一海兵隊航空団とそのオスプレイを移すという提案に言及しなかった。これは、大浦湾保全運動にとっては勝利、航空団の県内移駐に反対する運動にとっては敗北になる。バス内の人たちはこの提案に決して同意しないだろうとわたしが告げると、彼は、わかっているが、米日両政府の頑固さを考えると、これがせいぜい望める最良の次善策であるといった。

新入りの自己紹介が終わると、議論がはじまった。わたしがこのバスに乗りはじめた1月を振りかえると、普天間基地を本土に移設すべきだという提案は、運動を支援するために、はるばる本土からやって来た人たちに対して、そのような物言いが失礼になるという理由もあって、実質的にタブーになっていた。いま、気分が一変し、この問題が自由に論じられるようになって、いわゆる県外移設が若干ながら多数派の立場に移った。この変化は、一部は東京大学の高橋哲哉教授の著作(『沖縄の米軍基地~「県外移設」を考える』集英社)の出版に、また一部は、いくつかの本土(大阪、東京、福岡)グループがこの案を受け入れたことに影響されている。(本稿の意図は、普天間基地の本土移設に関する全体像を書き記すことではない。人びとの述べている要点は、次のとおり――①日本の反戦運動が「功を奏して」日本本土から多くの米軍基地を追い出した1950年代を振り返ると、現実として、米軍基地は沖縄に移設された。②世論調査によれば、日本人の60%が平和憲法を支持しながら、同時に86%が日米安全保障条約を支持しており、75%が沖縄の米軍基地に賛成している。つまり、大多数の人びとは、米軍部隊と基地のほとんど〔現状では74%〕が沖縄にあるかぎり、米国の軍事力で「防衛」されていたいと考えている。③差別。たとえば、辺野古の工事が再開されると報じていたのと同じ新聞が、本土の佐賀県で計画されていたオスプレイの訓練が、「人びとが承認しなければ、そのようなことはもちろんできないので」撤回されたと伝えていた)

女性のひとりが、1か月前のある日、バスが辺野古に向かう途中の休憩所に停車したとき、悪名高い沖縄いじめの菅義偉官房長官と公約破りの島尻安伊子国務大臣(アダ名は「島売り」)が駐車場を歩いていたと愉快そうに話した。気づいてすぐ、全員がバスからどやどやと出て追いかけ、やじを浴びせると、彼らはほうほうの体で車に逃げ帰り、大慌てで脱出した。この話を改めて披露され、大喜びの笑い声が湧き上がった(念のために言っておくと、道連れの大半が60歳代と70歳代)。

そのあと、歌がはじまった。彼らが座り込みの歌を歌ったとき、マイクがポケットから例の万能器械を取り出し、録音した。彼がワシントンDCに戻ると、彼ら抗議運動をしている人たちは、報道記事を読んで、思い浮かべるような、落胆し、意気消沈した負け犬気分でいるのではまったくないと、会う人ごとに話すことだろう。彼が録音した歌声、手拍子、笑い声は、その話に説得力を与えることになる。

基地ゲート前で、気分は祝祭(歌、踊り、笑い)から恨みと怒りへと振れ動く。連日二度、人びとは立ち上がり、道路を渡り、フェンス沿いを行進して往復し、次いでゲートに押し寄せ、拳を振り上げ、スローガンを唱え、歌を歌い、機動隊に向かって叫ぶ。彼らの方針は、基地の日常的な業務を妨害しないが、工事関連の車両だけは阻止するというもの。それでも時おり、巨大な軍用トラックの車列が揃って現れると、このルールを破り、やはり阻止したり、少なくとも遅らせたりしようとする。彼らは時に道路に座り込み、この時点で、機動隊員らが装甲バスからどやどやと出てきて、ゲートまで行進してくる。しかし、ことのなりゆきはすっかり定型化している。警察は、一時のあいだ、盛大に叫んだり、ときに小競り合いしたりしたあと、人びとが道をわたって戻り、集会を再開することを知っている。(こうしたことが起こっているあいだ、マイク・モチヅキは道の向かい側に立ち、ビデオ撮影をしている)
機動隊員らが年配の抗議行動参加者をゲートから排除(Photo by Yamaguchi Sueko

日中行動は、たいがい儀式的、象徴的、教育的なものである。工事関係車両は午前6時から7時にかけて基地内に入構し、バスが到着する時間は、その現場入りを阻止するのに間に合わない。早朝行動の参加者たちは、テントに泊まりこんだり、自分の車で駆けつけたりしているので、必然的に人数が少なくなる(人数は変動する。早朝行動に40人から時には100人もの多くの人たちが集まる。日中行動には、少なくとも100人、時には200人も集まる)。そこに来ていた男性のひとりが、その朝の行動は長く続かなかったとわたしにいった。彼はまた彼を路上から排除しに来た警官が、赤ん坊を諭すように、「おじいさん、ここは危ないですよ。安全な歩道に連れて行かせてください」といったとも――目を怒りでギラギラさせながら――話した。

20151110日付けビデオ、上原明貴文子おばあ強制排除

また、ひとりの人が拘束された。その人は、警官に背後から押され、倒れるときに、脚が別の警官に触れた(「その警官を蹴った」)。(その人は3日後に釈放された) 大事な点として、目下のところ、運動はトラックの基地内入構を阻止する方法を見つけていない。それでもなお、日本政府が翁長知事の工事を差し止める企てが無効であると言い立てているものの、北上田[沖縄平和市民連絡会]、その他の人たちは、法的な状況が不透明なままなので、工事は準備段階であるにすぎないと主張している。

Photo by Yamaguchi Sueko

座り込み集会は午後になって、ふたたび活発な――ときに辛辣な――討論会になり、普天間基地は本土に移設されるべきなのか、あるいは「撤去」をめざすべきなのか、論争になった。辞書をひくと、この語は、「除去」または「撤収」を意味しているが、これではなにかが失われている。「撤去された」なにかが、この世界からなくなってしまうことを意味しているようだ。第一海兵隊航空団の本土移駐の厄介な点は、この部隊がやはり戦争できることであるとわたしたちは聞かされているが、撤去される定めであれば、戦争できなくなる。人びとはこれが幻想であり、運動が功を奏し、これまでのところ、辺野古の新しい基地の建造を阻止し、航空団の本土移駐さえも食い止めているとしても、米軍が海兵隊を別の場所に移すのをやめさせる力量がないと少しずつ見るようになった。

バスが町に近づくと、議論はふたたび歌に変わり、那覇の中心街に入るころ、バス内の歌と手拍子は、デモ隊をけなす右翼の街宣車のどぎつい大演説や街の一般的な騒音と混じり合い、一大交響曲を生みだした。今日の那覇である。

【筆者】

C・ダグラス・ラミス(C. Douglas Lummis)は、駐沖縄米国海兵隊の元隊員、現在は沖縄住民、著書にRadicalDemocracy[『ラディカル・デモクラシー』]、その他日英両語の著作が多数。ジャパン・フォーカスの寄稿・編集者であり、津田塾大学の元教授。

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